短歌
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評論・エッセイ


歌誌『短歌』に掲載された評論・エッセイです
冴えた美しさ
(大塚寅彦歌集『カウディの月』書評)

2004年12月号 執筆者:三浦彩子

   大塚寅彦の第四歌集『ガウディの月』の最初のページには、次の二首が記されている。

  揉みあへる樹の若緑わが生れし日の風いまはいづくさまよふ
  鳥のため樹は立つことを選びしと野はわれに告ぐ風のまにまに

   開いた頁から、さっと風が吹いてくるような、印象的な導入である。

   一首目。作者は若葉が風にあおられ揺れ動くさまを見て、自分が生まれた日に吹いていた「風」に思いを馳せている。「いづくさまよふ」は、「風」に対する問いかけであると同時に、作者自身に向けられた問いかけでもあるのだろう。「日の風・今は・いづくさまよふ」という、ぷつぷつ切れたリズムは、作者の内面の揺れを表しているようで、印象的である。

   二首目。おおらかな歌である。一読すると、眼前に野原がさっと広がり、そこにすっくと立つ、樹ののびやかな姿が目に浮かぶ。樹を見たときに「何故あのようにまっすぐ立っているのだろう」と思う人はいても、それを「鳥のため」だと受けとめる人は稀であろう。しかも、そのように「思った」のではなく「野に告げられた」というところが眼目である。作者は、野に吹く風と交感し、その声を感受できる「選ばれた人間」なのである。「風のまにまに」という結語からは、作者のひそやかな自負、静かな充足感が伝わってくる。

   この歌も、一首目と同様、作者が内面に抱える、ある種の「問い」の存在を暗示している。「問い」を抱えているからこそ「告げられる」のであろう。その「問い」とは「樹はなぜ立っているのか」以上に、「私は何故ここにこうして立っているのだろう」という、自分の存在そのものに関する「問い」であるように思われる。

   この「何故ここにいるのだろう」という、いわば自分の「存在の不思議」に対する問いかけは、大塚の短歌に繰り返し歌われるモチーフである。私は、大塚の歌にしばしば指摘される「孤独感」は、この「存在の不思議」に「問い」を抱えつづけることによって生じる、「欠落感」「違和感」に根を発しているのではないかと思う。

  ものごころつきたるときは古びゐし五月人形鯉をつかみて

   ものごころついたときから、すでに古びた状態の五月人形があって、それは鯉をつかんでいる、というだけの意味であるが、茫漠とした寂しさが漂う歌である。作者は、人形の内部に沈殿する時間、すなわち自分の知らない時間というものに思いを馳せ、それによって「気がついたらここにいた」という喪失感、欠落感を喚起されているように思われる。蛇足だが私はこの歌を読むと、「そしてわたしはいつか どこかから来て 不意にこの芝生に立っていた」という谷川俊太郎の詩「芝生」の一節を思い出してしまう。

  魚の眼にわれは異形のものなるを しづかなる昼の水槽に寄る

   魚から見たらどのように見えるのだろう、さぞやグロテスクなものに見えるだろう、と思いつつ、作者は水槽に近寄っていく。大滝和子に「なんらかの解決策のあるごとくプラネタリウムの扉へ寄りゆく」(『銀河を産んだように』所収)という歌があるが、大滝の歌と同様、この「寄る」という行為には、何か「祈り」のようなニュアンスが込められているように思われる。作者は、人間の姿をしているにもかかわらず、自身を他の人とはどこか異なる「異形」の者であると感じ、違和感・疎外感を覚えているようだ。そこで、絶対的に異形である「魚」に近づくことで、いくばくかの心の安らぎを得ようとしているように思われる。

   このような欠落感、違和感を歌う歌人は、決して少なくない。しかし、大塚に独特な点としては、欠落感や違和感を歌いつつも、「つながり」や「愛」、他者の「承認」を希求する方向に行かないという点にあると思う。彼は訴えないし求めない。

   その代わり、大塚は内向する。「風花の散るとき気づくパン抱きて俯き歩みゐしみづからに」「日時計が影をうしなふ地のあらば行きたしと思ふまひる瞑りて」など、目をつむったり、俯いたりしている歌は少なくない。

   また、違和感や疎外感を歌いつつも、自分を受け入れない世界への批判、皮肉に傾かない点も特徴的である。第一歌集『刺青天使』に見られる、いくぶん尖った神経質なところは、この『ガウディの月』では薄れ、代わりに茫洋とした優しさを感じさせる歌が増えている。

  地球より離れゆけざるかなしみのあらむか月のひかり潤めり

   地球から離れることなく、地球の周りを回り続ける「月」。そのような存在に寄せる、作者のまなざしは温かく、そして優しい。月光を「潤めり」と感じる感性、その「潤み」を見て月の悲しみ―地球から離れていけない悲しみ―を察する感性、いずれも(私の偏見かもしれないが)40代の男性のそれとは思えない。童子のようなあどけなさがある。大塚の歌は「老成している」と指摘されることが多いが、この歌に見られるような「少年らしさ」も重要な特徴の一つであると思う。

   以上、大塚の歌について「存在の不安」「欠落感」「違和感」「内向性」「優しさ」といった特徴を指摘してきた。しかし、大塚の歌には、そのようなありふれた言葉では表現できない、独特な雰囲気があるように思う。読んでいて体が浮くような、日常世界に裂け目ができて、そこから見たこともない異次元の世界が見えてしまうような、不思議な感覚である。しかし、「日常世界からの浮遊」「異次元の世界」という言葉こそ、ありふれた言葉であり、そのような歌をつくる歌人は、大塚に限らないことだろう。では、私が感じる「大塚らしさ」はどこにあるのだろうか。この原稿の話をいただいてから、ずっと考えているのだが、どうしてもいい言葉が見つからない。 では、具体的に、そのような不思議な雰囲気を感じさせる歌を挙げてみたい。

  バレリーナ脚線のびてしめやかに遠き欧州の雨雲を指す
  モナリザは笑みてをらずと夢に来し誰かは言へり雨月ふかき夜
  エスカレーター下りゆきつつその裏を上りゆく死者のあらむこと想ふ
  左手(ゆんで)ひらき立つマヌカンは倒れても左手(ゆんで)を開きをり花曇

   いずれも異次元の世界に誘われるような、不思議な感覚が残る歌である。バレリーナの肢と欧州の雨雲、雨月の夜にモナリザは笑っていないと告げる謎の人物、エスカレーターの裏側を行き交う死者たち、倒れたマネキンの開かれた手とその上に広がる曇り空、いずれも、読み手に「ひんやり」した冷たい感触を残す。この「ひんやり」した感じ、ある種の湿り気を帯びた「冷たさ」は、大塚の歌からしばしば感受される性質だと思う。 私は、このような「ひんやり感」を、大塚の「女性」の歌に、特に強く感じる。

  携帯電話(けいたい)にかければつねに夕暮れのこゑもて応(いら)ふ女性(おみな)さびしむ
  女(ひと)の手に割られたるとき遠き日の没陽のごとく卵黄は落つ
  春さむし背のファスナーを下ろす間も〈明日の仕事〉を言ふひと女(ひと)に似て

   大塚の歌に登場する女性は、現実感が極度に希薄である。携帯電話に応じる、卵を割る、といった日常的な動作をしていても、生きて動いている感じがしない。「のっぺらぼう」な印象を受ける。どこかルネ・マグリットが描く人物―白い布をかぶっている人物や、紫陽花に顔全面を覆われている人物―を想起させる。いずれも忘れがたい異次元の世界の住人である。

   最後に、この異次元の世界への橋渡しが、よりソフトなかたちで実現している「比喩」の歌を挙げたい。

  水底に咲くあぢさゐを想ふまで冷房つよきカフェに籠れり
  巻貝の内部(うちら)めきつつ月界につづかむ長き廻廊を想ふ
  わがうちに変形真珠(バロック)なして凝るもの月させばあはく光はなたむ
  ローソンの若き店員ぎんいろのピアスは何を受信してゐむ

   いずれも、冷え冷えとした、冴えた美しさが印象的である。自分自身が水底に咲くあじさいに変化していく感覚、廊下(おそらくガウディの聖家族教会内部の螺旋階段)が巻貝の内側に変化していく感覚、夜空から何かを受信する感覚、月の光と体内の結石が交感する感覚など、いずれも新鮮で、読んでいて楽しい。歌を読む楽しさを教えてくれる歌だと思う。

   以上、思いつくままに、『ガウディの月』を読んだ感想を書かせていただいた。大塚氏の歌は、読めば読むほど深みと奥行きを増し、書けば書くほど分からなくなり、幾度も無力感に襲われたが、なんとかまとめることができて、うれしく思っている。このような貴重な機会を与えてくださった大塚氏に深く感謝申しあげたい。

新世紀パラダイム:「水」の位相―春日井建と高野公彦

2002年12月号 執筆者:大塚寅彦

   『青葦』『水の蔵』『友の書』『白雨』『井泉』という歌集名、 そして『水木』『汽水の光』『淡青』『雨月』『水行』『地中銀河』という歌集名を対比的に並べると、 嫌でも見えて来るものがある。いずれも(一つ二つを除いて)「水」に関連した歌集名ということである。 前者の作家は春日井建、後者の作家は高野公彦。春日井の場合は第三歌集からそれが顕著なのだが、 高野の場合はさらに『天泣』『水苑』と続いている。一見接点のないように見えるこの二歌人は、 水のメタモルフォーゼに対する親和性の強さという点で深く共通している。 では、どのようにそれは歌われているのか。

  男とや沈めとや水圏に棲むものの冷たかりける皮膚の誘へる  建『青葦』
  舟の舳にむしろやさしむ青みどろ水沈けるものに捲かれゆくべし 同
  照りかへるプールにむかひ魂きえし如く人体が落ちてゆくなり    公彦『水木』
  水底の砂ほのぐらくしづまるを冥府のごとく見て浮び出づ  同『汽水の光』

   春日井の歌は「水圏」「水妖」という、水の世界に棲むあやかしとの交感を歌った一連のものであり、その主題は明確である。 みずからは生命を生みだすことの出来ない男性という性、その存在苦の象徴としての水妖の世界が描かれており、 そこへの誘いはやさしくも「青みどろ」であり、永久に水沈ける存在との同一化である。それは生に対置される死の世界であり、 同時に未生以前の羊水の世界への回帰でもある。

   高野の「水の界」もまた、そこへ潜りゆくときの人間は魂の抜け落ちたものであり、死の世界である水底は冥府の 静もりを見せている。水の中にあるとき、人はかりそめの死にあるという主題が浮かび上がってくる。

  黒き魚ひそみをりとふこの井戸のつめたき水を夏は汲むかも  公彦『汽水の光』
  とほき世を見おろすごとし水にしづむ桐の青葉に日があたりゐて  同
  死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ  建『青葦』
  あひ呼びて泳げりわれら大洋に五衰のまへの青き四肢もて   同

   水界は生に対する死の界であるだけでなく、時間においても過去の時間が濃密に堆積した空間として存在する。 高野の井戸の中の「黒き魚」は遥かな昔から井戸の主としてそこに棲んでいるかのようであり、水に沈んだ桐の木はやはり 遠い過去においてそよいでいた青葉が陽に光るさまを見せているのである。

   春日井の大洋はアルカイック・スマイルのようなさざなみを立て、悠久の時の流れの中で命が生まれ死んで行く、 その無常の営みをやさしく見守っている。またその大洋に身をまかすとき人はいかなる衰えとも無縁の「青き四肢」であり、 ギリシャ神話の若き神々のように相呼び合うのである。

   このように春日井と高野の「水界」のイメージには深く共通するものがあるのだが、同時に相違点も見えて来る。 春日井の「水」はシャープな無機質性を感じさせるのだが、高野の「水」は魚や樹木がそのままそこで生きてゆけるような、 濃密な有機性をもっている。

  速雨の地を打つなべにししむらのうちなることば雨意をはらみつ  公彦『淡青』
  蟹を買ひもどるゆふぐれ雪雲は雪ふらしけりわが血を清め     同
  母のゐる海の底ひをはるばると暗き奈落へかへりゆく蟹      同

    夕立の土砂降りを見るうちに、肉体の中で呼び覚まされる言葉も「雨意」を孕み、夕ぐれを降る雪は身中の血を清める。 こうした外界の自然に深く反応する身体性は女性的であると言えるし、また海底の奈落に還る蟹は自身であると同時に、 「暗き奈落」も含めた全体が作者の身体性につながっている感がある。 こうして見ると、高野の「水」は女性性と男性性が はっきり分離されたところのそれではなくて、その境界のおぼろな場所にあるものという感じがする。偶然ではあるが高野の 出発点の歌集である『汽水の光』の「汽水」も、海水と淡水の交じり合う場所を意味するものだった。

  料理する指しなやかにいきものの精巣を水に晒してゐたり  建『青葦』
  わが前の視野のかぎりの水の蔵ことばを収めただ鎮もれり  建『水の蔵』
  仄あかき脚に刃物を入れしときけふ幾度目の時雨が過ぎつ  同

   それに対して春日井の水の変化は身体性の混沌よりも、むしろ理知や明晰を志向しているように読める。男性性は あっけなく解体され、料理する指によって精巣は洗い尽くされてしまう。エロスという本来混沌としたものさえも、 つきつめれば器官という肉の部品に還元されてしまうという作者の醒めた視点が感じられる一首である。

   湖を「水の蔵」と表現することじたい理知的だが、それはまた「言葉の蔵」でもあるという、作者における水と言葉の 不可分の関係が歌われている。『水の蔵』中の「定理」と題された一連では、水棲の生き物をあたかも丹念に解析するように 作者は蟹を食べている。

   ガストン・バシュラールは「水と夢」の中で「水は真に実質において死の代わりとなっている。(中略) 穏やかな水の中の死はいくつかの母性的特徴を持っている。(中略)ここでは水が誕生と死の両義的イマージュを混合している。 水は、無意識的記憶と予見的夢想とに充ちた全体なのだ」と書いている。

   羊水としての水と、その中の胎児としての水棲生物という神話的構図は高野の水界の歌にもあてはまるが、しかし 春日井には生きて泳いでいる水棲生物がほとんど出てこない。

   さきにあげた「精巣」の一首もそうだが、「定理」中の「よろひゐる甲羅のうちら柔らかき定理われはつくづくと知る」に はっきりと出ているように、作者は死の後の「自己存在」を解体検証するかのように胎児的存在であったはずの蟹を 歌うのである。

   つまり、高野が不透明な生の厚みそのものとして「水」を歌うのに対して、春日井は生や死を超越した位置からの眼差しで 「水」とそこに棲むものを歌っているのである。

  女男の性思ひゐるとき日が照りて緑の滝のごとき銀杏よ       公彦『水苑』
  秋水とひびきあひつつ白月はひかりの髄となりてそそげる       建『井泉』

   両歌人とも少し古い歌でここまで論じてきたが、近刊の歌集にもこうした歌を拾うことが出来る。

   緑の滝をなす銀杏の涼しさ、秋の水と白月の呼応の美、それぞれの作者の「水」の位相に合った洗練と完成が 感じられる歌である。生そのものにこだわる高野と、いささか死生を超越した感の春日井。水の変貌がこれから この二歌人にどのように歌われて行くのか、さらに注視してゆきたい気持ちでいる。

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