短歌

第15回サイバー歌会
歌評・其の壹


1 朧なる記憶の沼に積もりゆく仄かに白き山桜花

その言葉を使わずに「静寂」を表現し得た。 「記憶の沼」の深みにはまり込むあやうさ、さえ。 ただ、この作においては、朧と桜が付き過ぎかと。 「山桜」と「花」はダブりでは?(誰鬼)

日本人なら誰しもが持ちうる桜に対する情の最大公約数のような歌だと思いま した。表現に捻ったところがなく、桜の美しさを純粋に簡潔 に詠い上げています。シンプルイズビューティフル。佇まいが美し い。こんなお歌が42首のなかで1番目に登場することがすごいとい うか、出来すぎです。誰鬼様仰るように、朧と桜が付き過ぎの感が 確かにありますが、作者の採られた素直な表現を私は評価したいと 思います。
ちなみに、平安神宮の左近の桜の前には、次の本居宣長の歌の碑が立っています。

敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山ざくらばな   本居宣長

数多ある桜の名歌のなかでも私の好きな歌であり、故にこのお歌で も「山桜」「花」と続くのは私は気になりませんでした。むしろ宣 長の歌を想起させるような格調高い結句と思いました。(寺川育世)

詠いぶりに古風な雅さがあつて気持ちのよい歌。(やそおとめ)

渡月橋から山を見上げたところに一本の桜が咲いていました。あんな所 に一本だけ桜があるんだと思いながら麓のさくらがたくさん咲いている豪華さ と共に記憶に残っています。仄かに白き山桜花の表現は言い得て妙です。  (mohyo)

記憶の沼という表現は巧いと思いました。ただ、「朧」「記憶」「積もりゆく (特に 「ゆく」の部分)」「仄」と漠然としたイメージの言葉が並ぶため、幻想的といえばそうかもしれませんが、 全体的に漠然とした印象になってしまったところが惜しい気がします。(春畑 茜)

「朧」「仄か」という言葉の重なりから、まずぼんやりしていることが伝わっ てきて、情景自体はなかなか見えてきませんでした。沼は透明度が低いから、沼 (の底)に積もっていく山桜花は「仄か」にしか見えない、ということなのでし ょう。「朧」については、なくても「沼」であることで不確かさは表現できてい るのではないのかなと思います。 沼に積もっていく「朧なる記憶」が「仄かに白き山桜花」のようである、とい うのであれば、「朧」はなくてはならないと思います。が、そう読むのは無理が あるでしょうか?(やすまる)

全体を締める為にも、結句は「山桜かな」でよろしいのでは? (誰鬼)

静けさが伝わってきます。「すてき」な読後感ではあります。雰囲気も分かる のですが、「朧なる」と「仄か」で、あまりにも「ぼんやり」としてしまっている気がします。「記憶 」そのもの、あるいは「記憶の沼」を朧と言ってしまうと、どんな記憶なのか、どんな沼なのか、読者 まかせになってしまうように思います。 全体に「夢」を見ているような「ぼんやり」感です。(ほにゃらか)


2 桜花(はな)の散るのちの思ひにひとときは淫けりたり春近き樹のした

「淫けりたり」というのは桜の花の一面であると思います。梅の花に はない。桜花(はな)は「さくら散る」ではだめですか。字を見ずに声を出し て詠んだときにもわかりやすいと思います。(mohyo)

「淫」は音読みなら「イン」、訓読みなら「みだ・ら」、意味で訓読みすれば 「ひた・る、ひた・す」でも良さそうですよね。送りがなから「ふけりたり」と読ませたいのだろうと 思いましたが、ふつうに「ふける」と読む漢字を使うなら「耽る」ですね。「淫」の字で「ふけりたり 」と読ませるならば、ルビが必要ではないかと思います。文字通りの「桜花(はな)の散るのち」に思 いを馳せ、その想像に「ひととき」「淫けりたり」なのであれば、「ひとときは」の「は」の意図する ところが分かりませんでした。 さて、どうして「みだら」という文字をわざわざ使ったのだろうと考えました。 もしや、「後朝」とか、そちらの方面の歌ですか?だとすれば、「は」は一時的な感情が冷めた感じ を表現するために必要だったのかもしれないとも思えますし、「春近き樹のした」でもかまわないのだ ろうと思います。ですが、単純に字面の意味だけ追っていくと、「桜花の散るのち」と「春近き」の時 制の矛盾が気になってしまうのです。(ほにゃらか)

花の咲く前から、散った後を思っている歌でしょう。桜花と書いて、はなとルビをふって読ませるのに無理を感じました。また、淫の読み方がわかりにくいので、こちらにルビがあってもいいと思います。淫という文字は、どちらかというと人間くさいので、花には合わないような気もしました。(近藤かすみ)

「淫けりたり」が読めず意味がよくわかりませんでした。「ふけりたり」であ るとするとなんとなくわかります。この歌の今は「春近き」であって、花はまだ 咲いていないのでしょう。花の咲いていない桜の樹のしたで、花が咲いて散った 後の思いにひとときはふけった、ということでしょうか。何故散った後を思うの かということが、「淫」という字に関係してくるのかもしれません。例えば「樹」 は女性であるとか。「春近き樹」を見てその樹が咲かせた花を散らせているの を想像するとかそんなことを、「淫」の字から思い浮かべてしまいました。 (やすまる)

「淫けりたり」をどう読んだらよいのか分かりません。ですが、わざわざこの 「淫」を使っているので、この桜は女性の喩なのだと思いました。(ロン)


3 この年の桜の花を浴びながら天下国家をおもわずに呑む

豪快な男の歌と感じる。<この年の>が曖昧で歌の力を削いだ。(やそおとめ)

桜が咲けば心浮かれて日頃の諸事を忘れ花見に興ずるのに、なぜか歌に詠むと なると人生やら天下国家のことを桜に託す日本人。そうした方向で類型を脱却 した新しい切り口の歌を生み出すのはなかなか難しい(ゆえに腕の見せ所でも あるわけだが)。今回の詠草の中にもそんな歌がいくつかあったけれど、僕は この作品の詠いっぷりのほうに好感を持った。(伊波虎英)

「この年」、ひとまず良かった母と見る最後のさくらと車椅子を押した年 もありました。母は元気を取り戻しましたが脱臼するために車椅子にも乗れま せん。でも病院の窓から見える景色を共に楽しみます。「天下国家をおもわず に呑む」、「飲む」ではなく「呑む」がいい感じでした。天下国家を思ったことが無い 人はこういう言い方はなさらないでしょうしおいしそうなお酒ですね。 (mohyo)

桜のイメージからは可憐、繊細な面と散り際の潔さに集約されがち ですが、この作品はどちらからも離れている点で個性的です。 「おもわずに」ということは逆に天下国家を思っていることを示唆 しているわけで、そんな逆説的な表現も効果的です。 (村田馨)

国家と桜というとどうも固定したイメージになってしまいがちですが、 この歌は「この年の」という歌い出しがさりげなく上手く、 また「天下国家」と世界を広げておいて、「おもわずに呑む」と最後は 自分にひきつけたところが、とてもよくまとめられていると思いました。 骨太な印象の文体もよかったです。 (春畑茜)

男らしい歌だなと思いました。今年は天下国家をおもわずに呑まれるとのこ とですが、以前は天下国家の行く末などを思い呑まれたこともあったのでしょ う。と、ここまで書いてもしや官僚でいらっしゃったのかなと思いました。(瑞紀)


4 大波の縄の宇宙に舞ふ花や麻布一の橋ひかりの坩堝

「縄の宇宙」が何のことなのか、分からないので具体的に何のことかはよく分 からないが、超ひも理論と関係あるのかな? それはさておき、視覚的なイメージが 確かに想起できる。波打つ太縄が宇宙全体を走っているイメージから、「麻布一の橋 」という、具体的な一地点へと収斂して行く像がダイナミックだ。 という、第一印象を持ったあと、「縄の宇宙」をネット検索してみたところ、 彫刻家のサイトがヒットしました。
http://www.mariyoyagi.net
もしかして、麻布一の橋に彼女の彫刻があってそれを詠っているとしたら、ち ょっとがっかりの気もします。(村本希理子)

「大波の縄」は、大縄跳び(多人数が一緒に跳ぶ縄跳び)のことかと思いまし た。大波は、縄が地面を大きく揺らすので、下に落ちている桜の花びらも舞いあげ ている。ぐるぐるとまわる縄のつくる空間を、「宇宙」に喩えているのではないでしょ うか。その「宇宙」の中に、子どもたちだけでなく、桜の花びらも舞い上がる。 そこは「麻布一の橋」の公園?で、その光景はまるで「ひかりの坩堝」だと詠 っているのかと思いました。もし、そのような「なわとび」の光景を詠われているのだとしたら、かなりダ イナミックな大縄跳びなのかなと感じさせる表現だと思います。 (ぜんぜん違っていたら、申し訳ありません)
ただ、私は、麻布一の橋という土地について知らないので、この歌に「地名の 固有名詞」を使われる必要があったのかどうかが分かりませんです。 その土地ならではのもので、しかもかなり有名なイベントか何かなのでしょう か。(ほにゃらか)

「麻布一の橋」がどんな雰囲気の場所なのか知りませんが(どなたか解説お願 いします)、この歌を読んで、少女たちが路地裏でゴム縄跳びをして遊んでい る場面をイメージしました。さらに、結句の「ひかりの坩堝」から、無邪気に きらきらと輝いていた自分の少女時代を懐かしんでいる作品と解釈しました。 「平成」にはない、まさに「昭和」の、桜舞う美しくもノスタルジックな情景 がここにはあります。と同時に、無邪気に跳びはねる少女たちを桜の花びらに 見立てた歌でもあるのでしょう。(伊波虎英)

大波の縄、宇宙に舞ふ花、麻布一の橋、ひかりの坩堝・・・・・・どの句も柔らか い響きがあります。私には実感がつたわりません。何故だろうと考えました。 焦点を絞ってみたらもっと良くなる気がします。(mohyo)

私も、「大波」と「縄」から、大縄跳びを思い浮かべました。縄がまわってつ くりだす紡錘形を「宇宙」と表現していると思いました。銀河に紡錘形のものが あるのも関連しているでしょうか。その宇宙で舞うのは、子供達であり、散って くる桜の花びらでもあるのでしょう。春の眩しい陽光の下での大縄跳びの情景だ と思いました。「麻布一の橋」どんな所かは知りませんが、音として快いです。 (やすまる)

私も大縄跳の光景だろうと思いますが、縄も花も宇宙もたゆ たっているような不思議な感じがします。縄跳びと宇宙には少し既 視感があるのですが、「大波の」から始まる上句のゆったりしたリ ズムが快い。麻布一の橋は知りませんが、歌が観念に拡散せずに、 「ひかりの坩堝」という、ある意味大仰な言い方が、具体的な場に 集められて実感がありました。子どもや少女期の思い出などの人の 気配は感じませんが、地名が古風なのでそういう読みも出てくるの かな。(服部文子)

縄跳びの縄の中でグルグル回っていると、宇宙の果てしないイメージに入り込んだという歌だと思います。縄と麻布につながりがあり、良いと思いました。ひかりをひらがなにしているのに工夫が感じられました。麻布一の橋という橋があるのかどうかわかりませんが、あっても良い固有名詞ですね。(近藤かすみ)

私は麻布(五の橋近辺)の住民ですが、これは一の橋公園の光景でしょうか?  縄の宇宙や光の坩堝と一の橋との関連性が、よくわかりません。 でも、魅力的な表現なので、むしろ地名を消して、桜と宇宙と光だけに絞られたら、 更に良い歌になると思います。 (るか)

すでに書かれていらっしゃるとおり、大縄跳びで子供たちが遊んで いるところに桜の花びらが舞っている描写を想像しました。かなり の人数ですと、それはそこだけで閉じた宇宙空間なのかな、と。 麻布一の橋には公園があるようです。都会の真ん中、付近の住民の オアシスになっている場所と思います。麻布一の橋は幕末、庄内藩 脱藩浪士の清河八郎が見廻組の佐々木只三郎に暗殺される場所ですが 本作では関係ないでしょう。 (村田馨)

麻布一の橋という地名から連想したものは、高速道路...首都高 の大きな分岐点があるところですので。 ということで、夜の高速の光の帯を「縄」と、縄がのたうつ都会の光を 「宇宙」とみました。ひも宇宙も連想させて、面白いと思いました。 芝公園、増上寺と桜の名所も近所です。(五賀祐子)

最初、縄の宇宙と麻布一の橋が結びつきませんでした。縄とあるので麻布は 「あさぬの」と読むのだろうかと思ってしまったりしました。(瑞紀)

大波の縄、という広い時間軸と今を咲く桜とをリンクさせた、景の大きい歌だ と思いました。麻布一の橋、という具体的な地名を入れることで、一回性が強 調されているのも効果的です。(はるのくるみ)


5 桜花みつつ咲かせて銀色のコイン吸はるる夜の自販機に

「みつつ」は「三つ」で、百円硬貨のデザインを詠んでいるんですね。 表記は「三つ」としたほうが良かったのでは。 「見つつ」と読んでしばらく歌の解釈に悩みました。 「三つ」という数え方自体も稚拙で、ここは「三輪」とすべきでは。 目の付け所は良い作品ですが、全体的に旧かな表記との アンバランスを強く感じた一首です。特に桜という日本的な 素材と、100円硬貨を「コイン」と表現してしまった軽さとが すごく不釣合いなようで違和感を覚えます。(伊波虎英)

自販機の灯りに浮かぶ白い桜と百円硬貨の銀色の桜とが交じりあう ような、視覚的にとても美しく心惹かれる歌です。と書くのは、私 が完全に「みつつ」=「見つつ」だと思い込んでいたからなのです が、これって実は「三つ」のことなんですね!いい歌だけに、誤読 を誘いかねない表現は損に思います。
伊波様案の三輪はなるほどと思いますが、三房(みふさ)の方が音的に美しい のではとも考えました。でも、百円硬貨の桜はどうみても「三房」ではなく「 三輪」ですよね・・・。「コイン」の軽さは私も気になりました。
原歌の歌意を曲げるような批評は良くないと思いつつ、本音を言えば、現実に 桜を咲かせて百円硬貨の桜(銀色のコイン、だけで百円硬貨の桜を想起させる )とオーバーラップさせる構成にされた方がよりイメ ージの拡がる歌になるような気がします。(寺川育世)

百円白銅貨に目を付けたのが面白い。銀色の桜の花がいくつも自販機の闇にほ の明りしているのが見える。(やそおとめ)

「桜」というお題で「百円玉」を思い浮かべる発想が面白いと思いました。 もしかして、夜の自販機にコインを入れたのに、商品が出てこなかった。とい う意味かなと感じました。 お店の人もいないような夜の自販機に、お金だけが吸い込まれてしまうこと、 ありますよね。自販機がずるい生き物のように感じられ、「吸い込まれた……」という思いを 詠まれているのかなと、妙に頷いてしまいました。 ただ、コインを吸い込んでしまった自販機を中心に詠っているのならば、その 辺の不満感が若干弱く感じられます。吸い込まれたコインそのものの描写については、「〜咲かせて」という能動的 な表現から、「吸はるる」という受動的な表現に移行するあたりに何か意図があるのでしょうか。 (ほにゃらか)

桜のお題にコインの桜の花を選んだのは凄い。 みつつはやはり「三つ」がいいと思います。 「夜の自販機」という言葉は、 使い方次第ではやや、既視になりそうですが、 ここでは銀色の桜の花を飲み込んでゆくという イメージが鮮明で成功していると思う。 (大屋邦子)

初めて公開された夜この歌の意味が全然わからずに大ショックを受けし ばらくここに来られませんでした。しかしみつつが三つということだと知り安 心しました。若い人の言葉は英語よりわからない英語は間違いなくかいてあれ ば辞書で引き見当が付くのですがその類かと早とちりしました。面白い視点だ とおもいます。ショックをうけたのでもっと思い切り“春の夜自販機が桜の花 を吸い込んでいる”としてもいいかなと思いました。(mohyo)

百円玉の歌と教えてもらうまで読み過ごしていました。やはり 雰囲気のある視覚的に美しい歌だと思う。桜という象徴性の高い語 に対しコインはイコンという語を想起させる。言葉の選び方が上手 いと思った。「みつつ」の箇所はどう読んでも表記しても少しつま ずいてしまう。(服部文子)

前言撤回します。「みっつ」と声に出して詠むとすんなり詠め ました。夜、桜、銀などの語に引っ張られてしまいましたが、コイ ンの軽さもちょうど良いと思えました。白銅貨である100円玉には 桜も三輪ほどが相応かなと納得。でもあらためて良い雰囲気の巧み な歌と思いました。新かなで「みっつ」とあれば読み違えなかった と思う。目で躓くこともあるんですね。(服部文子)

桜という題詠から百円硬貨を素材した点に脱帽します。 (村田馨)

コイン、自販機、の金属性の硬いイメージの中に夜の言葉が挿入 されたことで見慣れた夜の一断片に潤いをもたらせてくれたように 思います。発想の意外性に思わず百円玉を財布から取り出し、 しげしげと桜の図柄を眺めました。(上村霞)

「みつつ」でひっかかり解釈に困っていましたが、とても気になっていた歌で す。百円玉のデザインだと分かり、自販機が硬貨を飲み込む目の付け所も面白く、 改めてよい歌だと思いました。(ロン)


6 かたちよく盛られし飯粒(いひぼ)妖変し桜はなびら仏間をおほふ

仏前に供えられたご飯が花びらに変容する幻想でしょうか。オリジナルな連想 のようには思うのですが、どうも、私にはぴんと来ないんですね。花びらと飯粒の形 はにているといえば似ているのだけれど、なるほどと納得できる連想としては受け止 められませんでした。(村本希理子)

桜のはなびらが仏間に入ってきたようすを、「仏様の不思議な力によって、ご 飯粒が桜のはなびらに妖変した」と喩えているのだと思います。 亡くなられた家族・ご先祖さまに、時には帰ってきてほしいという想いがなせ る錯覚かもしれません。 人の心のなかにある「静かな願望」とでも言いましょうか、それがよく表現されていると思いました。 ただ、「妖変」という単語は、微妙に苦しいかもしれません。(ほにゃらか)

「飯粒」がさくらに妖変と言う表現よいと思いました。桜花の重なりを 下から見ているとくっきり線のような縁芯の意外に大きいことでスイカの種が ぎっしり並んでいるような気分になることがあります。飯粒はなるほどでした。(mohyo)

桜の花には妖しさがありますね。なので、何かが妖変して桜のはなびらになっ て部屋をおおう、というのはありそうな気がします。その何かが「飯粒」である 必然性がどこにあるのかがよくわかりません。飯粒がはなびらになるというのは、 意表外で面白いです。(やすまる)

以下のように桜は上から見るより見上げた方が良さそうですね。飯粒の感じが出ている写真です。(mohyo)
http://www.mot.if.tv/linux/img/sakura31.html

mohyoさん経由で撮影者からのコメントも来ています(編集部)
「 歌の評をやりとりしているのをはじめて見ましたが、なかなかおもし ろいやりとりですね。たしかに普通の連想では飯粒と桜のはなびらは結 びつかないと思います。
距離感の変化が伝わりにくいのでしょうか。上から見た桜をさらに遠 くから見れば仏前に供えられたご飯にも見えますが、その連想から一気 にズームインしてその桜の中に包まれてしまうような心象風景は共有し にくいかもしれないです。
もっとも全く別のことを表現している可能性も高いですが。この歌の 作者が連想と視点の移動を持ち味とするタイプであれば私のような解釈 も成り立ちそうです。
子供の頃好きだった遊びがあります。近くの丘の上にある神社の前の 大木に抱きついて、中の水の流れを想像し、その流れと一緒に心が上昇 していき、木の頂上から眺めた景色を思い描きます。やっているうちに 木がどんどん高くなって、より高いところから眺められるようになって いくのがおもしろく、熱中したような記憶があります。
いま思うと、手に棒を持って、ナイフで雑木の枝を切りながら、山を 荒らして回っている子供が、そんな奇妙な遊びをしているなんて想像も できないですね。
歌や詩にも時々触れるべきですね。はるか向こうに忘れ去っていたも のを突然思い出すことがあります。」


7 このくにの春を飛ぶときこころせよ北のテポドン桜散らすな

桜と戦うイメージは昔からありますね。今無責任な掲示板などを読むと、 (外国人)選挙権を貰って、たくさん子どもを産んで、パスポート無しでも来られる日本に住め ば、天皇など一小部族の酋長にすぎなくなる、戦争せずに日本など無くなる、と書いてありました。 「人殺しの道具」はどんどん進歩しています。どんな国にしたいかを考え生活者としての視点を歌っていこうと思います。 「テポドン桜散らすな」だけで今まではすみました。これからは、だからどうする、何をしないか、 まで実際に考える必要が出てきていると感じます。(mohyo)

8 心電図乱れし洞を花房の海ひたひたと満たす静けさ

すっと一本通った気品を感じました。洞=心電図の暗い部分または病巣、花房 =心房と読みましたが、同時に、海へひらく洞窟とその入り口に立つ桜木を思 い浮かべました。体内の奥に満ちる海、その生命のみなもとへと作者の意識は遡っているのでし ょう。暗い海辺に咲く桜花の明るさは、命のあかりを表して いるかのようです。心電図の乱れの奥に、作者は、命の崇高さを見 出だしているのだと思います。(寺川育世)

病院で検査結果を聞いて家路につく作中主体。結果はそれほど良いものではな く、大きくため息をつきながらの道すがら、満開に咲き誇る桜並木の下を通っ たのだろう。大きく吸った息はもちろん肺に吸い込まれるのだけれど、作中主 体は「洞」すなわち心臓を桜の香、いや桜の花房そのものが満たすような感覚 に襲われる。最後の「静けさ」はうまくまとめ過ぎというか、やや言い過ぎの 感がある。あと、「心電図乱れし」は、「心電図乱しし」のほうが適切だった か。(伊波虎英)

「心電図乱れし洞」、「花房の海」、良く考えたら心臓ですね。そして心 臓はよくハートマークでしめします。桜花びらもハートでした。なるほどと思 いました。桜もみだれ散る感じがあります。椿も辛夷も散る時の花びらはぶざ まですし椿並木では一杯花が落ちていておどろおどろしい感じがあります。桜 は水溜りに散ってもそこを清静な空間にしてしまいます。(mohyo)

「心電図」と「洞」で、心臓のペースメーカーである洞結節を連想しました。 が、それでは歌がうまく理解できないので、洞は心臓自体ととらえるべきなので しょう。心臓を花房が満たしている様子は美しいですが、苦しくもあります。本 来あるべきものではないものに満たされた心臓はその機能を果たすことができま せん。(やすまる)

さくら満開の海に身を置き、心電図に翳りのみえた一抹の不安と、 検査で知らされた乱れた内臓の状態を静かに受け止める有様が オノマトペにより、ひたひたと伝わってきます。結句の静けさにより、 不安にゆれる心情が助長されて余韻をおぼえます。(上村霞)

心電図という言葉から、無機的なものを感じましたが、その後、暖かいものがひたひたと満ちてくるようです。 病気?の不安に馴染もうとしている作者でしょうか。(近藤かすみ)

洞は病巣と考えるのが妥当かと思います。それを前提に、 内臓の病巣を花に見たてた歌を考えると、まっさきに岡井隆の
肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は
が思い浮かびます。比較するわけでもないですが、作者の立ち位置の差、時代の差 をつい考えてしまいました。 (村田馨)

私も一年ほど前に、心臓発作の連作で
蕊嵐とほり抜ければ心臓に十一枚の桜の花弁
という歌を詠みました。8番のお歌も心臓と桜を取り合わせているので非常に驚きました。 心電図の擾乱と心房の静謐。とても美しい歌だと思います。(るか)

この「洞」の読み取りはいろいろ出来るけれど、私は「空虚な暗部」とその ままに読んだ。他の人の歌評を読むと、心臓とハートマークの関係などは私は気がつ きもしなかったので驚いたのだが、第一印象のままに感じたことを書くと、体調の乱 れから自身の肉体を空虚な暗部と捉えて、その朦朧とした空虚な暗部に対する自身の 生への願望とそれとは別に、自分の中に自然に存在する血潮のような生命力が無自覚 にあって、その微かな接点から生み出された安堵、何かしらの確信を持って朽ちない という現実感が静かに淡々と満ちてくるといった感じを持った。単純に生への希望で もなく、願望や祈りではない何かがあって、それはまさしく詠み手にとって、散る 桜の花の、その色や風に舞う姿にも似た命の感覚なのだろうと思って読んだ。(黒田康之)

自分のコメントへの付記です。「命の崇高さを見出だしている」と書きましたが、 命の崇高さ、とは単純に「一人の命は地球よりも重い」といったようなことではなく、 明らかな病状を目の前にして初めて作者は、いま自分が確かに生きていることに対して 何か神秘的な気持ちを持ったのではないかと思うのです。自分も含めてあらゆる生を 送り出した何者かに対し「畏れ」といった感情を持っているのではないかと。 そして、この先病状が悪化してどのような結果が待ち受けていようともすべて 受容しようと考えている。・・・うまく表現できないしずいぶん突飛な 解釈かもしれませんが、詠い収めに至る静かな美しさから、そのように思いました。(寺川育世)

病んだ心臓を花が満たしていくというイメージがあざやかです。 花房の重たさとひたひたというオノマトペが適切かちょっと迷います。(服部文子)

心電図の乱れ(感情の隙間?)という景の面白さがまずあります。 次に、花房の海というむせ返るような桜のうつくしさ、こわさが伝わってくるという時系列を 感じさせる歌だと思いました。(はるのくるみ)


9 ああああと桜は叫ぶあちらからこちらの僕を呼んでゐるとき

37番の作品にも書いたが、どうにも「桜」という花には死霊が取り憑き易いと みえる。「あちら/こちら」が単に「彼岸/此岸」なのか、或いは「狂気/正気」なの かは、量りかねるが、「僕」が「僕」を呼ぶ(裡なる)声に桜が呼応する。 それは多分、乱舞する花吹雪ではなく、見渡す枝一面にびっしり張り付いた満 開の花。叫び声とはおおかた無縁の、静寂に満ちた光景に亀裂を入れる「ああああ」 …この四字以外、なかったのかなぁ?、とつくづく思う。(誰鬼)

毎年見ているから何の不思議も感じないのですが、あの木の色から花の色 は想像も出来ません。重なり合って咲かれていると、ああああと言う感じはよく わかります。気のせいかもしれませんが、今年の桜は去年より威勢がよくない気 がします。皆さまはどう感じられましたか(千鳥が淵3/29、上野4/1での感想)。 「僕を呼んでゐるとき」から、(作中主体は)自意識がまだ強い若者のような気がしました。(mohyo)

漠然とした「桜の叫び」のイメージを、まさに裏付けるようなコラムを読んだ。 「七つ釦は桜に錨」の軍歌にもあるように、海軍と桜とは縁が深いのだそうだ。 その旧日本海軍の最期、戦艦大和の生き残りの人々の「あまりにも苛烈な桜の 記憶」は、単なる「西行的安穏な死生観のイメージ」しか持たぬ私には想像を 絶する衝撃であった。 もしかすると、作中の「僕」は『男たちの大和』で出撃したであろう過去の 「僕」から呼ばれていたのかも知れない。。。そう仮定した途端、「ああああ」 が 腑に落ちた。・・・もちろん、勝手な深読みかも知れないが。 (誰鬼)

あちらの桜が叫ぶ「ああああ」は、誰かに向けたものではなく桜の内なるもの の表出ではないのかと思います。それを、自分を呼んでいると受け取る「僕」は、 こちらにいながらもこころはあちらに行きかけているのでは、と思いました。 (やすまる)

「あちらからこちら」と書かれると、彼岸から此岸を想像します。 桜と海軍のつながりが書かれていましたが、桜と海軍から連想する のは人間爆弾「桜花」。作意とは異なるでしょうが、特攻で敵艦に 体当たりする間際の若者の絶叫と重なりました。 (村田馨)


10 満開の花の後ろの空白は黒く塗りこめサクラクレパス

耳の奥に響くは"Paint It Black" _ 先頃来日した ローリングストーンズの初期の名曲「黒く塗れ」。 (そうこじつけてしまうと、どうしてもシンパしてしまいがちに…) 青春のいらだちは、ときとして幼児期になじんだアイテムを行使する。 「サクラ」の重複はもったいない。折れるほどに塗り込め!(誰鬼)

花(桜)の題で、サクラクレパスを持ってきたのは面白いと思いますが、肝心 の「サクラクレパス」が生きてないと思います。 他の画材と比べ、サクラクレパスの陰影のない色──黒にしてものっぺらぼう な感じですね──がむしろ、マイナスに働いているのでは?(村本希理子)

「満開」だから、サクラクレパスが効いていると思う。 花そして繰り返してサクラ。サクラだらけなのです。 (大屋邦子)

これは絵に描くときの情景でしょうか。満開の花の向こうとか、先といえ ば空です。後ろの空白ですね。花がくっきり見えてきます。ただ、パソコンの画 面であれば勘弁して欲しいです(字が読みにくいのです)。今日のお茶会で出さ れた茶碗に真っ黒の茶碗かと思っていたら、外側の下のほうで手に持てば隠れて しまうところに椿の花が小さく横並びに彫ってあり、下地の茶碗の色の薄い茶色 が見えていました。けして目立たずだから、よけいに目立つ、なかなかのものでし た。絵も歌も、良く観て感じるところが似ているのでしょうか。どんな作品 なのかと興味を持ちました。 (mohyo)

黒をバックにすると桜の花は浮き立って美しいです。しかしこの歌では、桜を 浮き立たせせることでなく、空白を黒く塗りこめることに重点を置いているよう に感じられます。満開の桜の後ろを「空白」と表現することは、欠落感を表わし ているのではないでしょうか。(やすまる)

クレパスの商標を持っているサクラクレパス。この言葉の響きに 幼少の頃の郷愁を感じます。あるいは「神田川」の「24色の クレパス」を思い出すかもしれません。 成功した他者に対する自分のやるせなさ、自虐的感情を満開の 桜の背後の黒色として表現しと解釈し、そのツールに若き(幼き) 頃のアイテムである「サクラクレパス」を用いたことに技巧を感じます。 (村田馨)

「花の後ろの空白」に焦点をあてているところ、技あり、だと思いました。 結句の「サクラクレパス」も効果をあげています。 現代的で、しかも微かな毒を感じさせてくれる歌です。 (春畑茜)

「空白」だから絵の中の満開の花なのだろう。空白の白に対して黒は対照がきつ すぎてどうかとは思うが、ストーンズの「黒く塗れ」への作者の意識はあるよう な気がする。でもあの曲の歌詞で言うなら桜そのものを黒く塗ってしまえという ストレートな反逆心はこの歌にはなく、ちまちまと花の隙間を黒く塗るのはまた 違った偏執感につながる。「サクラクレパス」は単に桜だから入れたという感は 否めない。(大塚寅彦)

サクラクレパスを持ってきたところ、桜そのものではなく空白を詠ったところ に惹かれました。作者は何か物足りない思いでいるのでしょうか。桜の題材でも、 このように暗い感じに仕上げたところに巧さを感じました。(ロン)


11 けむりなき工業団地の無機質に音絶ゆる午後さくら吹雪きぬ

いわゆる「ふるさと」を持たぬ身で、近隣に町工場が点在していた土地に馴染 んでいた者としては、こちらの風景の方が「なつかしい」。煙も立たず機械音 も 途絶える「わびしさ」。そこに降る桜の落花。或いはアスベストも混じって飛 散しているやも知れず。「無機質に音絶ゆる」で蹴つまずく感あり。 (誰鬼)

現代の風景を切り取ったモノクロの写真のような歌ですね。稼 動していても規制などで排煙も出ない、騒音も絶えている工業団地 の午後に対照的に動きのあるあざやかな桜吹雪。工場敷地の植栽は よくある風景です。でも、この静けさに技術の勝利感はなく、影の 薄い、無人の風景みたいです。しきりにニュースに登場する中国の 工場地帯の喧騒と比べてしまいました。無機質という語はストレー トすぎるとも思うがその通りだと思う。(服部文子)

昔の工業団地と違い木々の緑に囲まれた工業団地です。その静かさの中 に桜がふぶく状態は対照的です。”無機質に音絶ゆる”が特徴的でもあります が”無機質に”が説明的な気もします。ある職場にいったら人がたくさんいる のにPCの音何かを送信する音がかすかに聞こえて人の話し声、鳥の鳴き声と 違い神経に障ったことがあります。声も音も無いのに落ち着かない静かなのに 静かでない場所でした。無機質という時それを思い出しました。無機質という 言葉を他の言い方にした方がいいと思いました。 (mohyo)

「無機質」さえなければという一首。「けむりなき工業団地音絶えて」で充分無 機質感がある。そうすると下句全体を桜吹雪の表現に使える。(大塚寅彦)

4句で大きく切れる歌で、映像的に言えば、無人の稼動していない工場地帯 の午後、寸断されるように音が止まった、日差しを受けた工場からズームアウトし ていくとやにわに画面を横切り始める無数の花びらといった感じじだろうか。煙も音 もなくなって、何も生存していないかのような空間に満たされてくる花吹雪は、美し くもあり恐ろしくもあります。常に生成し消滅していく日常への、つかの間の葬送の ようでもある。現実、私たちはこうした無機質な時間感覚によって毎日を送っているわけで、 花はその毎日を野辺に送って、自らが先に散ってゆく。こうした微かなふれあいに よって、私たちの日常は時計が刻むだけの時間にはならずにすんでいるのだろうと、 何らかのかなしみのこもった実感がした。(黒田康之)

「無機質に」が直接的すぎるようですが、これはこれでいいと思います。栄枯 盛衰をストレートに表したよい歌です。(ロン)


12 無味無臭鼻腔から吸い込んだあのサリン分子は花より淡く

地下鉄サリン事件を詠う作者の思いが、句またがりの破調から感じられる一首 。結句は言い差しではなく、「淡し」ときっちり終止形にしたほうが歌が締ま ったでしょう。「花」ではなく、やはり「桜」の文字を詠み込まないとこの作 品の持ち味が出ないように思いました。ちなみに、矢部雅之さんの歌集『友達 ニ出会フノハ良イ事』(2003年)所収の「サリン」と題する一連に「柔らかき光 溢るる春の日を花粉の如く満たしゆくもの」という作品があります。(伊波虎 英)

「吸い込んだあの」とあるので、直接の被害者なのかもしれません。 特別の思いもあるのかもしれなませんが、この歌からその「思い」が感じられ ないのです。「無味無臭」「鼻腔」という熟語の羅列が少し早口で無感情に見えることと、 「淡く」で結んでしまったことが原因ではないでしょうか。(ほにゃらか)

間接的な知り合いがサリンに巻き込まれ入院したと聞きました。無味無 臭なので花より淡くといわなくてもよい気がします。無味無臭鼻腔といわれる と何かの説明書を読むようです。他の表現の方がよいと思います。花より淡い を強調するのであれば“淡し”と言い切った方がはっきりすると思いました。(mohyo)

地下鉄サリン事件から11年、松本サリン事件からは12年の歳月が流れました。 あの、という指示代名詞の使い方から、被害者の関係者とお見受けします。 桜の花の散り際よりもさらにあっけなく人が斃れるのを「淡く」という形容で 見事に記していると思いました。 (村田馨)

「無味無臭鼻腔」の詠い出しが生きていなくて、「サリン」の恐怖感が薄れて しまっているように感じます。(ロン)


13 花散りてうすくれなゐの土の上大地踏みしむ精霊のかげ

桜吹雪に覆われた土の上を、桜の精霊たちが踊る姿が目に浮かぶ。 歌に巾があり、躍動感があって一番好感のもてる歌です。(川島千枝子)

踏みしめている主体は「精霊のかげ」なのだと思いますが、「精霊」という言 葉と「大地を踏みしむ」という力強い言葉が不釣り合いのように思われます。春を運んでくる精霊の力 強さを詠わんとしているのだとすれば、上の句が、ややぼやけて見える気がします。踏みしめている主 体が「われ」だとして、「大地を踏みしめると精霊のかげが見えた」というような意味だすれば、「精 霊のかげ」の結びでは不十分だと思います。 また、「土の上」のすぐ後に「大地」がくるのも、ダブりのように見えます。 とても美しく幻想的な情景が目に浮かぶだけに、詠わんとすることが明確に見 えてこないのが残念に思いました。 (ほにゃらか)

精霊が大地を「踏みしむ」という表現するのはしっくりこないなと思いました。 精霊には重さはないでしょうから踏みしめられない感じがします。しかし、踏 みしめるのがわれであるととらえると、情景がつまらなくなるように感じます。 土の上の散った花びらの動きに「精霊のかげ」を感じ取ったのでしょうか。 (やすまる)

桜の花のたくさん積もっているところをみるとわけも無く踏みしめてし ます私です。精霊のかげと精霊の気配を歌う方もあるんですね。私は自分が精 霊に成りすまし踊りそうです。描写であればもう少し細かく上の句を描写なさ った方が説得力が出てくると感じました。(mohyo) 


14 芳しき戦乙女が踏み鳴らすターフ、一陣の花吹雪かな

「ターフ」とあるので、「戦乙女」とは牝馬のこと。つまりは、4月9日にお こなわれる競馬のGTレース「桜花賞」を詠んだ歌ですね。桜花賞と言ってし まわない所は巧みですが、全体的に説明で終わってしまっていて、やや物足り なさを感じました。特に、後半部「一陣の花吹雪かな」にもうひと工夫ほしか ったです。ところで、レース結果はさておき、阪神競馬場の桜の管理は見事で 、毎年桜花賞に合わせて見事な咲き様を見せてくれますけれど、今年はどうで しょうね。(伊波虎英)

「ターフ」は芝ですね。ふつうは競馬の芝コースを思い浮かべるのだと思いま す。きっと競馬の牝馬のことなのでしょうね。でも、わたしは競馬のことが分からないので、戦乙女と いう言葉から、宮里藍ちゃんなどの女子ゴルファーをイメージしてしまいました。今、若い女子ゴルフ ァーが、ブームを巻き起こしている感があります。まるで一陣の花吹雪かと思うように。さて、「芳しき」はどこに掛かっているのでしょうか。基本的には直後の「戦 乙女」にかかるのでしょうが、「ターフ」にも「花吹雪」にも、全体にも掛かっているように見えます。 全体的に「芳しさ」を表現なさりたかったのでしょう。本来「芳しき」は素敵な言葉だと思うのです が、「乙女」などを修飾する言葉として使うと、掲示板などでの使われ方を連想してしまい、残念なが ら途端に下品な言葉に見える気がします。 (ほにゃらか)

小学校から結婚するまで東京府中育ちの私は馬は競馬馬しか見たことが 無く農耕馬を観て驢馬だと言い張り友人から顰蹙を買ったことがあります。馬 の家畜化が世界史を変えたことも確かです。情報のスピード化広範囲の防衛力 。競馬があるとき救急車が走れない消防車も走れない気をつけろといわれたこ ともあります。この歌の最後の締めの一陣の花吹雪というのはありきたりで折 角の上の句の緊張感がコケるようでもったいないと思いました。 (mohyo)



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