短歌

第15回サイバー歌会
歌評・其の貳


15 ちぎり絵のさくららららら散りぬるを催眠解かれしまなこに映す

上の句は、ちぎり絵の映像が浮かぶようで面白い表現だと思ったのですが、下 の句の「催眠」の意味がイメージできませでした。どんな催眠にかかっていて、それが解けた後に目に 映ったさくらのちぎり絵は、どんな意味合いがあるのでしょうか。 「春眠、暁を覚えず」のような寝ぼけ眼をひらくと、もう春だなぁ〜という感 じかもしれません。だとすると、「ちぎり絵」という言葉が活きてこないように思われるのですが。 (ほにゃらか)

私は催眠術を受けたことがないのですが実体験されたのでしょうか。 さくらららららは催眠術にかかりゆく様で桜が散っていくような景色が見えた のでしょうか。 催眠がとかれた時にちぎりえの桜がボンヤリ見えた。そして現実に戻ってきた。 (mohyo)

ららららというオノマトペが一風変わった味付けでした。 (村田馨)


16 サクラチル 赤門の道遥かなる子は電報を空に飛ばせり

目指す大学が不合格だったのですね。今の時代、電報など打たないでしょうから(携帯ですよね、きっと)昔のことですよね。 サクラチルなんてー入学は桜が咲くことなのですね。、私も、電話の前で報せを待ちながら祈ったのを思い出します。 「赤門の道遥かなる子」東大への道ですか、遥かなるなんて、出来の悪いことを痛快に詠んでられる。落ち込んでる親御さんに見せたいような。 「電報を空に飛ばせり」ですかーーいいですね!
全篇を満たす躍動感、諧謔味、清々しいお歌です。(みずき)

「遙かなる子」とは、どういう意味なのでしょう。 赤門(=東大)には遙かに能力の及ばない子という意味か、 予備校に通うために実家を離れ遠く離れて暮らしている子という意味か、 合格発表の当日、結果を確認するために上京したので家で待つ親から遠いとい 意味か。筆者の中だけで消化されてしまった言葉のように思われます。 空に飛ばした電報とは「メール」のことでしょうが、わざわざもって回った言 い方をしなくても良かったかなと思います。(ほにゃらか)

桜というお題を見たときすぐに思い出されたことがあった。祈るように待った どきどきしながら待った電報に「サクラチル」。 赤門の道ですから東大を受験されたのでしょうか。 当の本人はだいたい見当は付いていたかもしれない。 電報をうちおしまいにする。受ける作者もご縁が なかっただけもっと他に良縁があるはずと心の切り替えができたのではなかっ たか。 空に飛ばせりには力つよく前進しようとした感じがうかがえました。サクラチ ルと赤門はかなりの体験者がいらっしゃるのではないでしょうか。 一つの時代がありました。ケイタイ時代の前です。 (mohyo)

昭和の一こまでしょうか。受験生と合格電報は切ってもきれない関係でした。 親の方が目を吊上げていた大学受験も当の子供はおおらかなもの。 ある意味でのどかだったのかもしれません。(村田馨)

赤門は東大ですね。東大を受けたのだけれど失敗した。サクラチルでそれをうまく表現してみえます。紙飛行機で自分の辛さを飛ばしてしまうのですから、 若者らしくじめっとしていません。さわやかでとてもよいお歌です。(伊藤京子)


17 花ふぶくひとひらごとのつぶやきのエリ、エリ、レマ、サバクタニ

桜(和)から聖書(洋)への飛躍のあざやかさに唖然としました。 特に三句目の「の」の使い方(下句への繋げ方)がすばらしく巧み です。ともすれば手垢のつきすぎともいえる「桜=儚さ」が、この 歌の場合は臭みがなくすっと心に入ってきたのは、下句のフレーズ に、自然に口からついて出たような感じを受けるからでしょうか。 また、この字足らず(既存のフレーズだから字足らずにならざるを 得ないのですが)が、作者の悲しみをいっそう引き立てていると思 います。とにかく、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(神よ、何故 に我を見捨てたもうや)」に胸が締めつけられる思いがしました。(寺川育世)
上句・花吹雪の仏教的無常観と、下句・新約聖書の名文句との合体。 それさえ知らなければ、ものすごく出来たように見える。 花吹雪は、毎年、人々それぞれの感傷をそそるものだ。
実際、こうゆうテイストはとても好きな方だ。しかし、幸か不幸か、私はそれ を知っている。「エリ、エリ、レマ(ラマ)、サバクタニ」…額に香油を塗られ し者・イエス=キリストが磔刑に処せられた際、発せられたと云われる唯一の恨 みの言葉…「神よ神よ!何故にあなたは私を見捨てられたもうか!?」
残念ながらミスマッチというのか、もっと酷く言うなら、俳句における「根岸の里の わび住まい」的な使われ方をされる下句。花吹雪の「ひとひらごとのつ ぶ やき」を表現するには、宗教的表現が却って俗っぽく堕ちてしまった。もっと 作者自身の声が聞きたいところだ。(誰鬼)

私はクリスチャンの母をつれて牧師様の解説を受けながらイスラエルを旅したことがあります。 十字架を引っ張って刑場まで歩かれた細い道。 イスラムタイムにはイスラムの祈りが拡声器で聞こえました。 私は信者ではないので、パンもワインも頂かずに黙黙と従い、 イエスの時代からの石段を触ってきました。 ですから、”エリ、エリ、レマ、サバクタニ”は呟きではないと思います。 もっと血のにじむような恐怖と祈りの中で発せられた言葉のようです。 (mohyo)

時季的にはキリストの磔刑とそんなに違和感ないはず、と記憶している。ゴルゴ ダに桜なくとも、という感じ。花吹雪の中に十字架刑の幻影が一瞬よぎる、それ だけでも結構なインパクトだろう。実際はどうあれここでは花びらなのだから 「呟き」でいい。(大塚寅彦)

歌全体が呪文のようだと思いました。なんだか不思議な感じがしました。(瑞紀)


18 妙法を誦す声たえぬ幾百の年を重ねてしだれ桜の

境内を散策しながら、どこからか流れてくる題目の響きを詠まれたものか。 歌に奥行きがあってすばらしい。美しい歌です。結句、「桜の」がちょっと不安定に思います。 (川島千枝子)

「誦」は音読み「ジュ」「ショウ」、訓読み「とな・える、よ・む」ですが、 ここではなんと読めば良いのでしょうか。「誦す声」=「しょうすこえ」ですか?唱えるという意味な のは分かりますが、まず読み方でひっかかりました。 また、「たえぬ」の「ぬ」は打ち消し「ず」の連体形で「幾百の年」にかかる (〜声がたえない幾百年)なのか、完了の助動詞「ぬ」の終止形で二句切れ(〜声がたえてしまった。  幾百年〜)なのか不明確です。 「たえぬ」の後に1マス空けたりもされていませんので、自然な流れから考え れば前者なのでしょう。だとすれば、ここは「たえぬ」とせずに、「たえざる」とされた方が、文法的 にはすっきりとすると思います。「誦」の字の読み方によっては字余りになりますので、読み方もふく めて再考なさっても良いのではと思います。 どちらにしても、「しだれ桜の」という結句では、文法的にズルズルと流れて しまっています。(ほにゃらか)

樹の寿命は誠に長く7000年といわれる杉もあります。人間はどんなに長く 生きても120歳だそうでそれは平均寿命が伸びでも同じだそうです。桜の寿命は数百年という。みごと に咲いた花は1週間くらいで散ります。「みごと!」と見上げている時に何気に聞こえていた妙法を 唱える声がとまった。そのことで妙法の声に気が付いたのかもしれない。若い僧の鍛えられた声張り のある声は誠によいものです。黒染めの衣に白装束は桜と案外にあう。幾百年もそこに花を咲かせ るみごとさもよいし妙法を誦す声もいいので”しだれ桜の”でない終わり方がなかったのだろうか。 個人的には ”妙法を誦す声”に惹かれます。 (mohyo)

京都には、五山の送り火があり、そのために山に「大」「妙」「法」などの字が彫られています。 このうたの妙法から、その視覚を思いました。結句の「しだれ桜の」から、また初句に戻って、 妙法を誦すと言う循環があり、面白い歌だと思いました。 (近藤かすみ)

古刹のしだれ桜を詠まれたのでしょうか。読経の声と年月と桜の花が重なっ ていくように思いました。(瑞紀)


19 天衣無縫の天うつくしく花の香に洗われていく胸のみずうみ

「花の香に洗われていく胸のみずうみ」は美しいです。なので、その直前の 「うつくしく」はなくてもよいのではと思います。「天衣無縫の天」がわかりませ んでした。天女のことでしょうか?そこがわからないので、歌全体の意味が私に はわかりませんでした。(やすまる)

天衣無縫は(天人の衣服には縫い目がないように)詩歌など技巧のあとがなく 完全である様子をいいます。俗に天真爛漫の意にも使われます。天衣無縫の天というのは春の空がひ ろびろと広がっている様子でしょうか。天衣無縫の用法でこのような使い方があるのも初めて知りま した。「うつくしく」は言わないで美しさが解るような言葉にした方が春を満喫している様子が伝わるので はないでしょうか。胸のみずうみは弱い気がしました。 (mohyo)

「天衣無縫の天」を『天衣無縫ということばにおける天』ととらえていたので、 天女のことであろうかと思っていました。そうですね『天衣無縫である天』と とらえれば意味はわかりますね。mohyoさま、ありがとうございます。空が あまりにも美しい、流れてくる花の香に胸の内なるみずうみが洗われていく思い がする、ということだとすると、空が完璧に美しいのにその空に胸のみずうみが 洗われるわけではないんですね。「天衣無縫の天」がもったいないような気がし ました。(やすまる)

桜の美しさを詠う、ある種王道といえる方法かと思います。(村田馨)


20 春眠を今にも破るアラームが鳴り出す予感つぼみ膨らむ

慈雨を受けるたび、膨らむつぼみのときめきが伝わってきます。(川島千枝子)

春眠暁を覚えずといいますがアラームで目覚めるのはつらいです。最近のはや さしい音楽だったりします。リーンというのは目覚ましでありアラームというのは静かな音楽なので しょうね。母の病院は自宅から1時間30分のところにあります。週2〜3回通いますが先週と同じ景色 でないのは今の時期です。「つぼみ膨らむ」は木々の話し声のようでもありいいなと思いました。 (mohyo)

桜が咲くという普通なら平和な感じのことを、アラームが鳴るという緊迫感の発想がよいです。(ロン)

たしかに桜の蕾はふくらむや爆発的に咲き始めるので春眠を破るアラームに通じると思う。 mohyoさんと違って、アラームにはけたたましいくらいの元気な音を感じます。 元気のいい明るい歌と思いました。(服部文子)


21 そうなんだ 君がこの世にいないのに春は桜を咲かせているよ

すっきりとわかりやすい歌。君がこの世にいなくても、春になれば桜は咲く。その事実を改めて認識した作者は素直に「そうなんだ」と歌った。「そうなんだ」が初句にあることもちからになっている。(近藤かすみ)

解り易く切ない歌です。「日はまた昇る」というフレーズを思い出しました。 友人は昨年お連れ合いを亡くされた。彼女は行動的に活動し周辺は元気になったと安心している。でも本当 はじっとしていると耐えられないんだと思う。彼女は今年いろいろなところで桜を見ている。知らない振 りして水道橋駅近くの地下にある居酒屋「かあさん」でおでんを食べて映画をみた。彼女が私にかたりか けている歌のようだ。口に出されたら私は言葉を失うからしらんふりしてたべているけれど。 (mohyo)

悲しい気持ちを明るく詠ったところが共感を誘う作品です。冒頭、 「そうなんだ」が呼び水としてうまく働いています。(村田馨)


22 頑なに蕾のままでいる花の蕾のままで散るもまたよし

「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」どころか、「鳴かぬなら鳴かずともよしほととぎす」という心境でしょうか。 桜の蕾をいとしく思っている、作中主体があります。 (るか)

蕾のままに散るということですが花として咲かない蕾は朽ちていくように思い ますが。咲かせてあげられなかったのは天気のせいでしょうか。 その花をやさしく見ている作者があります。 (mohyo)


23 やはらかきはるを抱きし墨堤の桜さくらと君をみてをり

墨堤(ぼくてい)=隅田川堤の別称ですね。具体的な地名は出ているのですが、 「やはらかきはるを抱きし」「桜さくらと君をみてをり」だけですと、あまり実感が伝わってこない ように思うのです。 また、「桜」(主語)が、「さくらと君を」(目的語)「みてをり」(述語)なのか、 「墨堤」(主語)が、「桜さくらと」(連用修飾語)「みてをり」(述語)なのか、よく分かりませんです。 (ほにゃらか)

「やはらかきはるを抱きし墨堤の桜」は情景で、作中主体が「さくらと君を」 みているのだと思いました。春の至福、でありましょう。あ、いや今思ったので すが、「抱きし」では過去に抱いたことを表現していることになりますね。とな ると読みがちがってきますね。(やすまる)

“君とみてをり”でなく“君をみてをり”で、墨提に咲くあの華やかなさくらの ような君。「やわらかきはるを抱きし」が微妙にわけがわからなくなりました。 「やわらかきはる」で考えました。はなまつり、曲水の宴、花筏、花の影、 都鳥、瀬音、花霞、春疾風、稚児桜、手折り桜、こうあげていくと 抱きしより包まれる感じかな、と思ったりしました。勝手に決めてごめんなさい。 (mohyo)

「墨堤の桜さくらと君をみてをり」はいろいろに読めて面白い。「桜のよう な(思慕の対象である)君を見ている」とも読めるし、 「桜を見る愛しい『さくら』という名の女」とも読める。また、 直接の対象となる人物を見るのではなく花影の中にその 人を見ているとも読める。「桜を見るようなふりをして、君を見ている」とも 読めるし、「桜と人物を同時に(並列に)見ている」とも読める。いろいろな解釈が 可能で面白いので、私は敢て「君」を「桜花」そのものとして読んだ。単純に形象を 念想して擬人化したのではなく、春を抱く優しさそのものの淡さのようなものを人格 として捉えているのだと読んでみた。仮名の使い方が意識的であったので、「抱きし墨堤の桜さくらと君」の部分 の実体感とそれを前後してある仮名の部分のやわらかさが明確になり、だからこそ、 こういった読み方も出来るかなと思った。(黒田康之)

墨堤は隅田川堤とのことですが、「墨」という渋い色彩から、若い人の情熱に まかせた恋というよりもしっとり落ち着いた大人の恋といったものを感じまし た。「桜さくらと」桜を重ねたうたうような表現からは、作者の心のふるえと 幸福感が伝わってきます。恋人を見ている作者の視線にやさしさを感じます。 ところで、初句の「き」音がどうもきつく聞こえてしまいます。全体の柔らか いトーンを保つためにも「やはらかな」の方がいいのでは、と思うのですが、 「やはらかき」にするか「やはらかな」にするかは、作歌において自分もいつ も迷うところです。同様に、また時制の点から「抱きし」も気になりました。 (寺川育世)

柔和な調べの中に密やかな君への思いを宿す一首。 「桜さくら」のリフレインが効いている。「君を」の「を」が手柄。 しかし、「さくらと」の「と」は「は」の方がよいのでは?とも思いました。 助詞ひとつで場面も意味合いも大きく変化してしまう。(菊池裕)


24 餡パンの臍に凹みし歳月も桜はなびら朽ちて食むまで

餡パンのへその部分に桜の花の塩漬けをのせたものがある。塩漬けになるまでの一年を余分に生きのびた桜だが、ここで作者に食べられてしまう。作者が餡パンの上の桜も、今年の桜の風景もすべて食べていく勢い、喜びを感じさせる歌だと思った。(近藤かすみ)

意味をつかみきれなかったのですが、「凹みし」と「朽ちて」からポジティヴさよりネガティヴさを感じました。(やすまる)

餡パンの凹みにある塩漬けの桜は色も咲いているときに近く香りも咲いている ときよりします。きつすぎないので邪魔にならず桜の咲いている情景をおもいださせてくれます。はなび ら朽ちての”朽ちて”という感覚がわたしにはないのですが。餡ぱんは明治大正昭和をへて今は平成の餡パ ンです。少しずつ違う餡パンもできてそれなりの歴史あるパンですね。 (mohyo)

せっかくの「桜はなびら」をユニークに料理した題材なのに、「凹みし歳月も」 というような表現でわかりにくくしてしまっている。あんぱんの臍の桜はなびら を食べて私はなお命ふくらむ、というような展開の方が面白い。(大塚寅彦)

百円硬貨の桜のレリーフを詠んだ歌もありましたが、それ以上に思いがけない着眼で意表をつかれました。 何となくネガな気持ちをパンの臍の凹みに託して、桜の咲きと引っ掛けている点が独特な想いを味あわせてもらえます。 ただ、「はなびら朽ちて」の「朽ちて」を気持ちではなく「食む」物への表現として、別の言葉はないでしょうか。(象)

餡パンを開発した木村屋の心遣いが桜の塩漬けとして今に到っている そうです。本作の「歳月」には明治期にできた元祖餡パンの歩んだ 歳月も込められていると考えました。(村田馨)

味のある歌だな、と思いながらも、どこかピントの合わない気がして、なぜな のだろう、と思っていました。皆様のコメントを読んで、思ったのですが、 餡パンの歴史的な時間と、一個の餡パンを前にした時間とのずらしが 自然には流れていないのではないだろうか、という気がしてきました。 「餡パンの臍に凹みし歳月」は一個の餡パンのこととは思えないから、明治期 の創生期からの歴史と読むのが妥当だろう、と思います。それが「桜はなびら朽ちて 」の部分で、そこに張り付いている桜の花(正確には花びらではなく、八重桜1輪の塩 漬けなので、ちょっと疑問が残りますが)の年月を思わせながら、目の前にある餡 パンの、塩漬けにされた一輪の花へとイメージをスリップさせて、結句の「食むま で」で一個の餡パンに視点を固定させる、という構造になっているのではないかと思 います。しかし、「桜はなびら朽ちて」の「朽ちて」が塩漬けのこととするにはち ょっと言い過ぎの感があるため、ずらしがうまく働いていないのではないか、という ふうに思いました。(村本希理子)


25 髪を剃り 術待つ叔母の 胸にある 九段の桜 逝きし兄の絵

逝きし兄の絵の結句は、詠みすぎに思います。 登場人物が二人、作者や読者からみて、どちらも遠い感あり。(川島千枝子)

作者がいたわりと感動の思いで手術室に向う叔母をみているらしいとおもいま した。しかし 兄が自分の兄の絵なのか叔母さんの兄なのかわかりませんでした。下の句と上の句をひっ くり返すとわかりやすくならないでしょうか。亡くなった(戦死した?)兄の九段の桜の絵をその妹は胸にだ いて手術をまっているといわれるとわかりやすいのですが内容的にあっていますか。(mohyo)

九段、病院、桜、とくれば、九段坂病院から見た都内有数の名所、 千鳥ヶ淵公園の桜ということになります。通りを挟めば靖国神社。 叔母の兄君の御霊が祀られているのではないでしょうか。 脳の病気の手術。事によると兄の元へ旅立つかもしれない、 と覚悟をしている叔母の気持ちが、美しい桜と対比されて際立ちます。(村田馨)


26 山桜モンマルトルに咲きおれば埋ずめ尽くさんユトリロの墓

この方も私と同じくユトリロが大好きなのですね。パリ・モンマルトルの街を描きつづけたユトリロ、 初期の大好きな白の時代を思わすモンマルトルの墓地、作者はそこへ思いを馳せたのですね。 彼の人生と墓地、そのグレーのイメージのなかに、桜が降りしきり、皓く埋めつくす。
詩情漂うお歌です。(みずき)

ユトリロについてそれ程詳しくはないが彼は、モンマルトルで1883年に生 まれ、祖母の元で育てられた。母親は、モデルで、ドガ、ロートレック、ルノワール 等と親交があったという。だからモンマルトルの申し子みたいなもので、周辺の風 景画で有名になった。
http://www.interq.or.jp/orange/hiroko-/europe00907.htm
ユトリロの人生も大変だったなあと思います。絵を描かずにいられなかったの だろうか。 さくらの花びらで埋め尽くそうと言う作者の思いはユトリロを知れば知るほど 深いものなんだなあとつたわるものがありました。 (mohyo)


27 花の王驕れる春のふるさとはいさいさよひの存へ果てむ

すみません、評の以前に、「いさいさよひの存へ果てむ」の解説を何方かお願 いいたします。 (誰鬼)

「(春の)花の王」とは桜なので、「花の王驕れる春のふるさと」は、桜が満開の故里の事でしょう。 「いざよひ」なら陰暦16日のことですが、「いさいさよひ」が少し不明です。 「存へ果てむ」は、「長きがやっと終わるだろう」という意味でしょうか? 誰かhelp! (るか)

●「その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」 与謝野晶子
(「その子二十櫛にながるる黒髪のおごれる春のうつくしきかな」とも)
●「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」 紀貫之・古今集
27番のお歌を読んで、上のふたつの歌を連想しました。この本歌取りをなさっ ているのだと思います。紀貫之の歌は特に有名なので解釈の必要はないと思いますが、 「人の心は、さあどうか知らないが、ふるさとの花は〜〜〜」という意味ですね。 27番の歌は、紀貫之の歌を逆転させて、ふるさとを「人」の 部分に持ってきていると考えました。つまり、「ふるさとはいさ」は、「ふる さと(の桜)は、さあどうだろうか。人は〜〜〜」ということでしょう。 「いさよひの」は、「十六夜の月」を連想しますが、 ここでは「いさよひ(名詞:ためらうこと)」+「の」所有格・格助詞だと思います。 「存へ果てむ」は「ながらへはてむ」と読むようです。「生きながらえて、天命を全うする」と いう意味だそうです。「桜の名所の(桜満開に咲き誇る)ふるさとは、さあどうだろうか。人はためら いながらの生を全うするだろう。(別解釈:この辺の桜は、ためらいながらも散ってゆくだろう。)」 だろうと思います。(ほにゃらか)

まず最初に問題なのは「花の王」。これは牡丹の雅称と辞書にあるから、ちとまずい。 「いさいさよいの」の「いさ」は恐らく感嘆詞。軽く受け流す時の応答語で「さあorいやなに」。 「いさよひの」はいざよひ(上代では清音)でためらうという動詞。 「存へ果てむ」は「存へ果つ』生き長らえて天命を全うするという動詞に助動詞「む」が付いた推量もしくは意志・決意を表す。 で、この歌を解釈すると・・・全然分からない。 「花の王驕れる春のふるさとにいさいさよひて存へ果てむ」であるならば、少しは分かるのだが歌意から外れるかもしれない。正味あまりはっきりしたことは言えませんね。 (倉益敬)

ほにゃらかさま、倉益敬さま、お二人の解説でようやく理解までこぎつけまし た。やはり初句の「花の王」が「いさ、十六夜の」に繋がらなかったようですね。 (誰鬼)

花は女性的な感じがして王といわれて何の花だろうと思いました。さくらばな 驕れるのではだめでしょうか。その他解りにくかったのですが皆様のコメントで少し理 解できました。わかりやすい言葉をひねって難しい言い方をされると辞書を前に ためいき深き春の宵になってしまいました。勝手に読み解く不安と面白さがありました。 (mohyo)

簡単なことかもしれませんが、この歌でわからなかったのは「存へ」の読みです。存からは「ある」しか思いつかなくて、 送り仮名の「へ」がつくと、こしらへ、拵へ・・だろうかと想像します。ここでひっかかって読めません。 (近藤かすみ)


28 桜蝦がいっぱい入ったかき揚げを思う火曜の昼の食堂

桜蝦も桜と同じく晩春の季語なので、少しずらしながらも同じく春の気分を詠 っているという点で面白いと思います。また、昼の食堂という場所もいいですね。た だ、素材はいいのですが、生かしきれていないような気がします。かき揚げを「思う 」としてしまったために、臨場感がなく、また、火曜は他の曜日に置き換え可能なよ うな気がします。(村本希理子)

「思う」がものすごく大仰な感じがします。「火曜」という思わせぶりな語句 に必然性があるとも思えないし、ただ単に桜蝦のかき揚げが食べたかったのに 食堂にはなかった……、というだけの歌意しか僕には読み取れず、「それで? 」という感じで心に響いてきませんでした。素材(食物)と場所(食堂)が即 き過ぎなうえに、それをうまく作品として広げることができなかったのが要因 でしょう。(伊波虎英)

素直に思いを57577のリズムで言ったのだなあとおもいました。 今は胸やけがしそうですが昔はかき揚げを突然食べたくなりました。 昼の食堂でそう思い火曜日だったとリアリティを出すためにいれられたのでしょうか。 かき揚げを思ったのは本当でしょうが食べたとか喰らうとかにした方が火曜の 昼の食堂が活きるように思うのですがいかがでしょうか。 (mohyo)

日常のひとこま。「思う」というからには、目の前にかき揚げはない ようですね。食堂に入って昼食を取る。勤め人にとって、ささやかな 幸せのひとときに、「桜蝦がいっぱい入ったかき揚げ」がなかった 残念さが伝わってきます。火曜というのが絶妙で、週明けの月曜でも 週末が近付く木、金曜でもない。一週間を単位にすると、トップギア で突っ走りはじめる曜日であり、なおさら欠乏感が増加するようです。(村田馨)




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