短歌
SINCE 1923



春日井建百首選
(大塚寅彦選)



『未青年』

大空の斬首ののちの静もりか没(お)ちし日輪がのこすむらさき

空の美貌を怖れて泣きし幼児期より泡立つ声のしたたるわたし

唖蝉が砂にしびれて死ぬ夕べ告げ得ぬ愛にくちびる渇く

太陽が欲しくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

粗布しろく君のねむりを包みゐむ向日葵が昼の熱吐く深夜

海鳴りのごとく愛すと書きしかばこころに描く怒濤は赤き

春潮の底にわが影かがやくと白き波頭をくぐりて泳ぐ

与へあふいのちなき夜のわれのため彫られてありしラオコーンの像

火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり

星宿の下いきいきと訪ひゆくに与ふべきものはこころの何処(いづこ)

火の剣のごとき夕陽に跳躍の青年一瞬血ぬられて跳ぶ

ギリシャ詩の恋唄胸にただよはせ地下の石柱に背をもたせ待つ

瞑目しふいに瞠(みひ)らく若き眼に射すくめられきわれも女艶歌師(アルメ)も

帰りゆくさむき部屋には抱くべき腕さへもたぬ胸像(トルソオ)が待つ

蒸しタオルにベッドの裸身ふきゆけばわれへの愛の棲む胸かたし

両の眼に針射して魚を放ちやるきみを受刑に送るかたみに

男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ

昼の月匕首(ひしゅ)のごとくにひらめけば君の放浪癖も愛さむ

遥かなるわが祖は男巫(おとこみこ)ならむ瞋恚(いか)れば霏々として雪が降る
                                              

『行け帰ることなく』

女を抱けば水兵きみには海霧に潰れし視野より暗からむ視野

逞しく草の葉なびきし開拓地つねに夜明けに男根は立つ

わがうちの追憶街に燈(ひ)はともりポオの少女妻仄かに歩む

革命よりガラスの玉を愛すれば生きのびて寒し市民ケーンも

飼猫にヒトラーと名づけ愛しゐるユダヤ少年もあらむ地の果て

ひとしれず罪を愛せしわれのため鐘打てりルドンの鐘楼守は

熱砂に伏して妬むはポンペイの恋人ら相抱きて化石せしこと

瞑りつつ指頭つらぬく血を弾けば破れゆくソナタの古典形式

弟よエロスよわれらを迎ふる陽は山の礼節のごとも明るし

な笑ひそ脂(あぶら)うきたる村人ら雪喰ふは飢ゑゐるのみにはあらぬ

この祭はかなしみ多し雪が疾り鬼が裸体であることなども

わが杜国わが鷹の不在ひさしきに壮(さかん)なる雲立つ伊良湖岬


『夢の法則』

ちちははのこときれむ彼方ひかり零(ふ)るその日美しくわが老ゆべし
                                                          
星空のカムパネルラよ薄命を祝ふ音盤(ディスク)のごと風は鳴る

われよりも烈しきものに打たれたく風哭く冬の夜をさまよへり

ジイドよわれは情熱を欲る日もすがら金いろの裸麦に埋れて

夏の嵐に暗く肉感目ざめつつ誠実(まこと)に執する日記をひらく

わが歓喜告ぐべきひとと帆を繰(く)りし日は暮れ初めつ青潮のうへ

純潔の時はみじかく過ぎ去らむわれに透過光するどき汀

降る雪の空に青ばむ少年の沈思をつつむにふさはしき雪


『青葦』

爾後父は雪嶺の雪つひにして語りあふべき時を失ふ

美しくあらねばむしろ廃市たれ風の乾ける駅を背にせり

雲の崖ゆ風なだれ来よ家毀す犯意にわれの革(あらたま)るべし

青嵐過ぎたり誰も知るなけむひとりの維新といふもあるべく

劇中劇のあやまちし間のごとくにも見つめ合ひ語らざりし終の日

父は背を向けて去りにき子の頬を平手うつべき朝なりしを

父三度祖父四度せし婚姻のさはれ切り落す桔梗の青

一瞬を捨つれば生涯を捨つること易からむ風に鳴る夜の河

まひるまに夢見る者は危しと砂巻きて吹く風の中に佇つ

住む場所のいづこにもなき悲しみに砂漠清しと言ひしロレンス

死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ


『水の蔵』

物書くは返報とおもふわれのため晴夜暗夜を充たしめたまへ

鏡をば虚無の中枢に射し入れて星を得たりしエドモンド・ハレー

わが前の視野のかぎりの水の蔵ことばを収めただ鎮もれり

うち伏して寂けきものを起こし吹く風と葦との力学を愛づ

憂鬱(メランコリー)の言葉呑みたるくちなはの苦しむならむ月下に垂れて

されどわれ精神(こころ)と肉と分かつすべ知らず柑橘の香りを好む

よろひゐる甲羅のうちら柔らかき定理(テオレマ)われはつくづくと知る

壮年にしづかに兆す悲しみやある日の風はわが肩ゆ立つ

母が起きわれは眠らなあかときの厨に塩の大き壷冷ゆ


『友の書』

球は球を打ちて奔れるあやつられもてあそばるるは魂かも知れぬ

冷涼と来たりて冷涼と去(い)にしもの妄執の影ぞその後のわれは

月の光受けてきらめきゐたりけり可視なる精神のごとき粗塩

襟元をすこしくづせり風入れておもふは汝(おまへ)かならず奪ふ

白波が奔馬のごとく駈けくるをわれに馭すべき力生まれよ

今に今を重ねるほかの生を知らず今わが視野の潮(うしほ)しろがね

動かざる雲なりながら変りゆけり黄金はいつか色失ひて

涅槃より呼び戻すごとパソコンの液晶文字にタゴールを読む

汀には死面が浮きてゐたりけり手に取りてかぶらむとして失ひき

白(まう)すことなけれど天へ向けて咲く白花大いなる悲哀を湛ふ


『白雨』

鴨のゐる春の水際へ風にさへつまづく母をともなひて行く

死を宿し病むとも若さ大雪の朝の光を友は告げくる

雑木々は雨後の光にけぶりたち柔らかき浄衣ふはりとまとふ

ハザーラ人にわれは似るといふ天に近き高地にて風を追ひゐる民に

死などなにほどのこともなし新秋の正装をして夕餐につく

いづこにて死ぬとも客死カプチーノとシャンパンの日々過ぎて帰らな

またの日といふはあらずもきさらぎは塩ふるほどの光を撒きて

何もせぬために来し部屋潮騒がおしよせて眠りのうちに入るまで

自死の前の祖父と食みしよ悲しみの量(かさ)とも実りし乳の実いくつ

朔の月の繊きひかりが届けくる書けざるものなどなしといふ檄


『井泉』

エロス――その弟的なる肉感のいつまでも地上にわれをとどめよ

片方は天使が引くとファウストは言へりもう一方の手もわれは知る

こころの悲(ひ)からだの患(かん)と分かちがたく今朝も白粥の椀を食(たう)べぬ

海境の青の潮(うしほ)を見てあればあしたのわれや常(とこ)をぐななる

夜見ののち恋慕のおもひいや増しぬわれはなべてにまつろはぬ者

薄雪は風に乗りつつ丈ながきながき白竜と化(な)りてなびける

向かひ合ふ少年の目は遥かなる草原の禾(のぎ)ほどにするどし

秋水とひびきあひつつ白月はひかりの髄となりてそそげる

月齢が欠けて行く日よ静けさを積む机(き)に母はまだ書きてゐる

熄(や)むといふ一語をおもふ火の息ののちのしじまに母は横たふ


『朝の水』

朝鳥の啼きてα(アルファ)波天に満つうたの律呂もととのひてこよ

着水は静かなれども軽鴨はおのづから生れし輪のなかに浮く

宦官の舌をよろこばせし茶葉の秋の雫のやうな滴々

天秤のかしぐか天を見てゐしにさらさらと銀河の水こぼれたり

母の椅子の先に置きある大鏡 つと入りゆきてつひに戻らぬ

てのひらに常に握りてゐし雪が溶け去りしごと母を失ふ

みづからが夜振りにゆらす火のやうな若者ら兵となることなかれ

一瞬の燦にかなはずそののちの彼が得しやも知れぬ永き生

前世来世見ることなからむわれなれば今をとことはとする言葉あれ

昼かげろふゆらゆら揺るる日向にて今年も会はむ咲(えま)へる花に

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